私は教師でも伝道者でも預言者でもない、もちろん、牧師でもない。
「真実の行方」と言う映画で冒頭に牧師が殺されるというシーンがあったが(多分・・・私の記憶違いでなければ・・・・)、確か、モーツァルトのレクイエムが流れていたと思う。
私は前々から宗教は「私的」なものだと言ってきた。
つまり集団になったり、徒党を組んだり、宗派を作ったりすることが、実はその宗教を脆弱で不信仰なものにしているのではないか?と思っているからです。
簡単な理屈ですが信仰や崇拝は誰かと何かをするものではないですよね?誰かと祈れば、信仰が深まるわけではないですよね?
信仰や崇拝は神(或いは教義)と私との1対1の対峙だと思います。
宗教に限らず、人は集団になると、とんでもない行動を起こしかねます。それは個人でのとんでもない行動に比べたら、集団故に、はるかに強力で、影響力のある行動になるのです。
牧師や僧侶の全てが脆弱で不信仰だとは言いませんが、牧師や僧侶故に、少しの悪事でもそれはその信仰にとって重大な造反になります。なぜなら彼らは神に仕えている、或いはその宗教を教え広めるという立場であり、その立場は微細の悪事も行ってはいけないのですから。
私がそういう立場にならないのは、私の「逃げ」なのです。
私は罪人であり、これからも罪(神に背く行為)を繰り返します。
私はただの臆病者です。臆病者が集まると、狂気を生みます。なぜなら臆病者は勇気ある者に憧れるからです。
故に私の信仰は個人的で「私的」でなければいけないのです。
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My Sin |
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