『目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい』
Be watchful, stand firm in the faith, act like men, be strong.
My angel |
嘘、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富もせず、ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください【箴言 第30章 第8節】Remove far from me falsfood and lies.Give me neither poverty nor riches. Feed me with the food that is needful for me. (Proverbs 30-8)
『どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン』
Now to him who is able to do far more abundantly than all that we ask or think, according to the power at work within us, to him be glory in the church and in Christ Jesus throughout all generations, forever and ever. Amen.
My angel |
私は教師でも伝道者でも預言者でもない、もちろん、牧師でもない。
「真実の行方」と言う映画で冒頭に牧師が殺されるというシーンがあったが(多分・・・私の記憶違いでなければ・・・・)、確か、モーツァルトのレクイエムが流れていたと思う。
私は前々から宗教は「私的」なものだと言ってきた。
つまり集団になったり、徒党を組んだり、宗派を作ったりすることが、実はその宗教を脆弱で不信仰なものにしているのではないか?と思っているからです。
簡単な理屈ですが信仰や崇拝は誰かと何かをするものではないですよね?誰かと祈れば、信仰が深まるわけではないですよね?
信仰や崇拝は神(或いは教義)と私との1対1の対峙だと思います。
宗教に限らず、人は集団になると、とんでもない行動を起こしかねます。それは個人でのとんでもない行動に比べたら、集団故に、はるかに強力で、影響力のある行動になるのです。
牧師や僧侶の全てが脆弱で不信仰だとは言いませんが、牧師や僧侶故に、少しの悪事でもそれはその信仰にとって重大な造反になります。なぜなら彼らは神に仕えている、或いはその宗教を教え広めるという立場であり、その立場は微細の悪事も行ってはいけないのですから。
私がそういう立場にならないのは、私の「逃げ」なのです。
私は罪人であり、これからも罪(神に背く行為)を繰り返します。
私はただの臆病者です。臆病者が集まると、狂気を生みます。なぜなら臆病者は勇気ある者に憧れるからです。
故に私の信仰は個人的で「私的」でなければいけないのです。
![]() |
My Sin |
『また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである』
And when you pray, do not heap up empty phrases as the Gentiles do, for they think that they will be heard for their many words. Do not be like them, for your Father knows what you need before you ask him.
My angel |
『さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである』 Now faith is the assurance of things hoped for, the conviction of things not seen. My angel