聖書を1度きり読んだだけで全てを理解できる人が神様に選ばれた人なのかもしれない。
私はもう何回読み返しただろうか?
『それは、こう書いてあるからです。「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし悟りある者の悟りを退ける。」』(1コリント人 1-19)
は私に疑念と不安をいつももたらしてましたが、
今日読んで少し、ほんの少し、理解できたかもしれません。
神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント人 1-21から)
また、
キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。(1コリント人 1-17)
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリント人 1-18)
割礼が無意味であるように、洗礼も無意味なのです。
モーセの十戒を破った割礼者が信じる人でしょうか?
聖書を一度も読んだことがない洗礼者が信じる人でしょうか?
割礼や洗礼によっては決して、贖われません。なぜならそれは型でしかないからです。
かれらは聞くには聞くが、決して行わない。
いや、聞くこともしない人は、割礼も洗礼も無意味なのです。
故に、私は絶えず聖書を読みます。
それが私の贖いなのです。
![]() |
My Sin |
0 件のコメント:
コメントを投稿